遠くから 誕生日おめでとう!

 誕生日おめでとう!! 最近は連絡を取っていませんが、元気に過ごしていることと思います。
 去年は8月に会ったきりだったよね?

 今、アラサーの真っ只中。いつも新鮮な気持ちを持って、新しい発見や出逢いがありますように...。
これから君がどういう人生を歩むのか分からないけど、これからもちょっとだけ、その歩みの中に絡んでいきたいと思っています。
 今でも君の笑顔と暖かさは忘れていないよ...。


 話は変わるけど、在宅での仕事って時間の制限が無く、何をしようと勝手なので、仕事の合間にNHKBSでの名作をよく観ています。
 今年になってからは、元々好きだった古い映画(主に40~60年代)を鑑賞する機会が増えて、今ではすっかり魅了されてしまいました!
 特にモノクロの映像に惹かれて、郷愁を覚えるんだよね! 古い街並みや程よい仄暗さがある景観が、遥か遠い昔の出来事を連想させてくれて...。実際、そこにいた筈がないのに懐かしく思うんだ。

 名作映画は、作品そのものに感動したものもあれば、その映画を初めて見た時の想い出、自分の過去の情景が蘇って甘美なノスタルジー感に浸れるのが良い。
 その時、自分は何処にいて、誰と出逢って、どんな出来事があったか感傷的になる。

 名作と言われながらも未だ観ていない作品、かつて観て感動した作品に再び出逢えた喜び...。
 映画のもう一つの役目になるんだよね! 新しい出逢いも再会も大切なもの...。

 さて、お誕生日プレゼントは夏に会った時にするとして、取敢えず今は、『アラフォー世代が楽しめる音楽と映画』の右サイドバーに、ボクがお勧めの映画を12個紹介してあります。
 テーマは「女の生き方 強さと脆さ」です。

 映画好きな君を感激の涙に浸らせようという魂胆?なので、悲恋ものばかりになってしまいましたが...。
 今でもレンタル屋さんに通っているのであれば、是非借りて、観て下さい! 
 ちょっとマニアック過ぎて取扱いしていない作品もあるんだけど...。

 あっ、家に着いたら化粧落としする必要ないよ! 自然と落ちるから! きっと!!

 また盛夏の頃、会いに行きます! 

   追   記

 ゴメン ((^┰^))ゞ アラフォー世代じゃないのにね...。 ┐(-。ー;)┌

 でもブログで誕生日祝いをする試みって、仲々グッドアイディアでしょ?


『ノッティングヒルの恋人』/ジュリア・ロバーツ  ポスター   


2009年06月25日 Posted by 杜の都の素浪人 at 11:55Comments(0)忘れられない女性達

連絡はないけど、元気でいますか? 

 ここ仙台市では平日の2時からの時間帯は「2時間サスペンスドラマ」の再放送をしている。 火曜サスペンス劇場でのエンディングテーマで、安全地帯の「出逢い」という歌があるのだが、ボクの今の心境を見事に抉ってくれる。
 ボクには須賀川市に好きな女性がいる。この人と一緒に暮らすだろうと思っているのだが、不思議なほど、互いの環境が仲々そこに向かって行かない。互いに好意は寄せている。多分...。
 暮れの季節を迎えて感傷的になっているのだろうか? プラス思考になれないのだ...。このままダメになってしまう気がする。でもまだそれは分からない。 

 郡山で出逢った女性の中で、何人かは結婚を意識した。サラリーマン時代だったから、1人の女性の面倒をみるくらいの収入はあったのだが、もう一歩踏み込めなかった...。それの繰返し...。
 郡山最後の年に出逢った女性。きっとこの女性を見逃したら一生後悔するだろうと思った。

 互いの感情が一番高ぶっていた時に、ボクは会社から転勤命令を受けた。長距離になってしまったが、それでも定期的に彼女に会いに行っていた。笑顔を見ると元気が出たのだが、もう一歩踏み込めなかった...。
 
 転勤先に戻ると、いつも違和感を感じていた。結局、転勤先の空気に馴染めず、仙台に戻ってきた。彼女との距離は近くなった筈だったのだが、それ以前から、彼女のお母様は重病を患っていたのだ。
 詳しくは教えてくれなかったのだが、おそらく癌なのだろう。今、東京の病院に治療入院している。まるで映画の「その日のまえに」を彷彿させる...。それで彼女は、付き添いの為、一緒に東京にいる。
 これって、一緒に暮らせない暗示なのだろうか?

 思えば、今年は一回しか彼女に会っていない...。最近は連絡を取っていないのだが、元気だろうか? これから彼女とどういう運命を歩むのか分からないが、彼女に出逢えてよかったと思っている。
 そして今でも彼女の笑顔と暖かさは忘れていない...。


     『出逢い』  作詞:松井五郎


   連絡はないけど元気でいますか?
   好きだったあの声 耳に残ってる

   そばにいなくても抱きしめられていたのでしょうか
   あなたに伝えたい このぬくもりを

   あなたに出逢えてたこの喜びを
   いつまでもいつまでも忘れない
   あなたを愛してる

   覚えていますか?
   今でもあの歌を  


2008年12月06日 Posted by 杜の都の素浪人 at 19:09Comments(0)忘れられない女性達

正論を堂々と言った福島県人

 今月初旬の大騒ぎ事で、政府は、歴史認識に関し政府見解に反する論文を公表した田母神航空幕僚長を事実上、解任した。これは、田母神氏が書いた論文の中で、集団的自衛権の行使を日本国憲法違反とする政府見解や95年の村山談話と異なる主張を発表したことが問題視された理由に依る。
 その内容は、

  ・「日中戦争は侵略戦争ではない」
  ・「太平洋戦争はルーズベルトによる策略であった」
  ・「諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。」
  ・「アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速し、日本の伝統文化が壊されていく。」

 などとなる。

 田母神氏は、戦争を知らない我々に良い機会を与えてくれたと思う。特に若い世代に、戦前戦後の歴史や東京裁判、中国・韓国・北朝鮮との歴史認識の相違等に興味を持つ人が増えてくれれば思う。
 ボクは決して右翼的な思想ばかり持っているわけではないが、共感する箇所はたくさんある。友好条約を結んだ中国や韓国からいつまでも援助金という形で、お金が搾取される現実を見た時、納得がいかなかった。
 平和条約を結んだ時点で、補償は求めないのが国際ルールなのである。それに中国や韓国は感謝の意を表するどころか、日本にケチばかりつけている。
 日本政府の対応も甘いのだが...。

 歴史というものは、戦勝国から見た一面に過ぎない。事実に対して戦勝国の思惑を埋め込ませているのが実体だ。つまり日本ばかり、悪い国に仕立てたのである。
 我々の多くは戦争を知らない。その種の情報はマスコミから受けることが多いのだが、「日本は悪い」的考えに浸っているマコミから真実は得られない。
 我々は、戦争を実際に経験した方々の意見や心情をもっと取り入れないといけない。

 処で、“田母神”という苗字に聞き覚えがあって、会津若松でお世話になった同性の人を思い出した。調べてみたら、田母神航空幕僚長は、郡山の出身だったんですねぇ~。
 自分が正しいと思ったことに対しては、圧力に屈しない! 白虎隊の生き様を思い出します! 

 ある意味、生き方が下手な田母神氏に敬服します!!

 福島県の皆さんは、田母神氏の発言を恥とせず、堂々と福島県民の誇りにして下さい!

  


2008年11月17日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:02Comments(0)旬な話題

X-JAPAN hideの死んだ日

 昨日、以前勤務していた元同僚からゴルフに誘われた。次週の日曜日に宮城野CCでプレーするつもりだ。久しくクラブを握っていないので、勘が鈍っていると思うが、楽しく過ごせれば良い。
 宮城野CCは山元町にあるが、もう少し走ると福島県新地町となる。ボクが住んでいる所は、仙台バイパスに接しているので、6号線はすぐである。
 考えてみれば、一番近い福島県の市町村が新地町となるのだ。この新地町での思い出を話してみる。

 ’98年5月は新地町に新しいクリニックが開設された。クリニックが新規に開業すると、地元の人にお披露目祝いをする習慣が根付いてきている。
 院内は開放され、訪問者は自由に行き来が可能になる。各室に設置された高度医療機器を見せるという狙いもあるのだ。院長先生とは、福島医科大学から知合いだったので、その縁で何点か装置を購入して貰った。
 その関係上、1日からボクと部下はクリニックの援助に借り出されたのだ。

 その頃の健康ブームも手伝ってか、購入して貰った装置で骨の丈夫さを測定することになった。お年寄りが多いせいもあるのだが、患者の方も骨や血液サラサラ度などには関心が高かったと思う。測定は大盛況のうちに終わった。
 そう言えば、一緒に測定の援助をしてくれた技師のTさんは、まだ勤務しているのかな?

 2日目の正午近くだったと思うが、テレビのニュースで「X-JAPANのhideが自殺をした」と流れた。その時は、測定が忙しかったので、概要はお昼休みに知ることとなった。
 自宅マンションの寝室で、首を吊って状態で心肺停止していたのを同棲していた婚約者が見つけて、すぐに病院に搬送されたが、遅かった。享年33歳だった...。

 当時のボクはX-JAPANのことは詳しくなく、それほどの偉大なバンドであったことは後から知ったのである。既にX-JAPANは解散していたし、ロックミュージシャンって自ら命を絶つ者が少ないことを分かっているボクとしては皆が騒いでいるほどショックではなかった。醒めていたというか、要は知らないからなのだ。
 自殺した原因は、解散は引き金になったとマスコミは報道していたような...。

 その後、5月の連休も終わりX-JAPANのCDを聞く機会があった。聞いた事がある歌が出てきて、これがX-JAPANの曲だったのかと分かると、その優れた才能に一目置いた。
 hideは骨髄バンク登録への普及に一生懸命だったことも、後に知った。

 未確定情報であるが、X-JAPANは再結成される動きがあるらしい。hideの代役のギタリストは見つけられるのだろうか?
 今更ながら、X-JAPANの偉大さが分かってきた...。

   追   記

 旅館名は失念してしまったのであるが、院長先生が手配してくれて、更にはご馳走になった新地町の旅館はまだ営業されているのだろう。
 FXで少し利益が出たので、また伺って、部屋に置いてあった「思い出ノート」を書き綴りたいものだ。
   


2008年10月29日 Posted by 杜の都の素浪人 at 20:49Comments(0)相双での思い出

郡山で旨いラーメン屋さん  My Select vol.2

 仙台に再び住むようになってから半年が経った。思い出が沢山詰まった郡山の街には、その気になればいつでも行ける距離になったのだが、新しく始めた事業が上手く回転するまで、まだまだ時間がかかりそうだ。 
 息抜きは必要だと思う。ただこれからどのように人生が展開しようとも、今は正しい仕事のノウハウを覚えて、一所懸命になるしかない!
 来年の今頃には、大した労働をしなくても収入が安定するように今を頑張るしかない!

 ボクの住んでいる所は、仙台東部自動車道のインターチェンジの近くだし、仙台バイパスもすぐそばだ。いずれのルートを走ろうとも、愛車セリカならば一時間半もあれば郡山には到着する。
 仙台のマンションで、17時くらいまでWebサイトを作成していても、「夕食は郡山の○○のラーメンが食べたいなぁ~。」と思えば、19時には店に行けるのだ!

 郡山でサラリーマンをしていた頃、それも若い時に、夜遅くまで仕事をして、帰り何を食べようかと考えた時によく行っていたラーメン屋さんがあった。
 新さくら通りを真っ直ぐ走って、郡山バイパスを抜け、コスモス通りを反対側に走ると大槻に着く。豆腐専門店の「美豆木」のある通りをもう少し走ると、「だるまやラーメン」がある。

 閉店は21時だったかな? いつも閉店間際の遅い時間帯に顔を出して辛し味噌ラーメンと餃子を注文したものだ。そろそろ店を閉めようかなと思っていた矢先にも拘らず、親父さんと叔母さんは嫌な顔一つせず、作ってくれた。
 二人の優しそうなお顔を見ていると、気持ちが和んでいた。特別、会話らしい会話はしたことがないが、お二人の人柄からは暖かい人情味が出ていた。

 辛し味噌ラーメンと餃子は文句なく旨い! 麺の上にはコーンともやしが山盛りに載っていて、こってりスープは麺によく絡んでいた。
 特によく通っていた時期は15年以上前になるのかな? 近いうちにまた顔を出して、その時々の思い出に包まれていたい。
 まだ、お元気でお店、営業されているだろうか?
  


2008年10月23日 Posted by 杜の都の素浪人 at 17:43Comments(1)旨い店探訪

本気で結婚を意識した女性

 以前、クエストビル6Fの「Dips」で出逢った女性について話をした。可憐な娘のことである。その彼女がお店の都合で辞めると知った時、新しく馴染みのスナックを作らねばと思い、同じクエストビルの3Fに飛び込みをした。
 時代は平成元年、6月か7月頃だったと思う。丁度、美空ひばりが逝去した頃と前後する。

 もうその時のスナックは無くなっているが、ここの経営者は幾つか姉妹店を持っていた。今でもエリート11ビルに残っているであろう。ボクと同年代の人達なら覚えているかも知れないので、スナック名は伏せておく。
 一つだけヒントを言うと、夏になると怖いお話をすることで有名になったタレントIの義理の妹さんが経営していたお店である。

 そこで週3回バイトに来ていた女性がいた。初めての出会いは8月の初旬だった。ボックスの向かい側に座って、小柄で明るく、とても可愛らしい顔立ちで、会った途端にピンと来た。運命の出会いを感じたのではあるが...。
 後で知ったのであるが、ボクがその店に行ったのは2回目。彼女も2回目のバイトの日であった。2はボクのラッキーナンバーであるのだ。

 彼女は、昼は一部上場の企業に勤めていて、バイトに来る曜日は、月、火、木だった。その日に合わせて店に行くようになった。
 当時の給料はそんなに多くなかったので、ちゃんと計算して行った。今週は火曜日に行ったのであれば、次週は木曜日にしようと決めていた。

 10月18日は彼女の誕生日である。その年、23歳の誕生日を迎えようとしていた彼女はボクに、谷村新司の「22歳」を歌ってとリクエストしてきた。
 普段、カラオケなどしないボクであったが、その時だけは歌った。彼女は22歳から23歳に変わる節目に思いを込めながら、しんみり聞いてくれていた。
 バブル全盛期の明るい夜だった。今みたいにサブプライム問題で世界的な不況なんか考えられない時代であった。

 その当時、彼女に特定の彼氏がいたかどうかは怖くて聞けなかった。本当のことを聞いてガッカリしたくなかったし、その愛くるしい顔を見れれば充分だった。現状維持が良かったのか?

 そのスナックは翌年、業務拡張でエリート11ビルに移った。店名も変わった。ボクがどうこうと言う権利は無いがボックスが広いその店は、団体客に優先してホステスが付くようになった。それはしょうがない!
 しかしそのことで、密な接客が出来なくなって、常連客(大概は単独で来る)が離れていった。店の雰囲気が悪くなって、それは昔からのホステスも感じていたようだ。
 いつしかボクも行く回数が減っていった。風の便りで、彼女も店を辞めたことを知った。

 もう彼女と会う事もないのだろうと思っていた。しかしやはり運命の女性だった。その後、幾度も離れては会っての繰返しをしたのであった。
 今日、彼女の42回目の誕生日を仙台から祝う!  


2008年10月18日 Posted by 杜の都の素浪人 at 17:39Comments(0)忘れられない女性達

一度気持ちが離れてしまうと...

 ボクは自分が気になる女性の誕生日は大体は憶えている。今日お話する女性は、ボクが郡山営業所でバリバリ売上を上げていた時に、事務員として採用した人だ。

 平成3年のことだった。それまで約4年間働いていた事務員が寿退職するために、新しく事務員を雇う事になった。
 ボクがかつて勤めていた会社は、東京の本社がある為、給与体系も東京の水準に合わせていたので、地方の求職者にとっては魅力があったと思う。求人広告が遅れたにも拘らず、11人の応募があった。

 簡単な作文と面接だったと思う。当時のボクは、一営業マンだったので、面接はその時の支店長と所長が行っていた。
 その時のボクはお得意先廻りで外出していたのだが、どんな女性が来るのか気になって、仕事は半分、上の空だったと思う。

 いつもより早めに会社に戻ってきたとき、まだ事務員が残っていた。「今日の面接どうだった?」と聞いたら、「2人に絞り込んで、そのうちの1人がとても綺麗でスタイルの良い人なんです!!」と答えた。
 ボクは事務員が管理している履歴書を見た。顔写真だけだったが整った顔立ちで、事務員が言ったことに頷けた。
 当時、ボクは芸能人の田中美奈子が好きだったのだが、彼女はそれを彷彿させるような格好だった。

 しかし事務員は、「でも所長は、別の方を選ぶみたいですよ。」って言った。所長は実際面接したので、彼女から受けた印象でものを言ったのだろう。写真でも分かるのだが、ちょっと派手で自己主張が強いかなとは思った。
 しかしボクは性格は努力で変えることは出来ても、ルックスは仲々変えられない! 毎日会う人ならば、綺麗な方が良いに決まっている!! その方が会社も楽しいと思っていた。

 早速、帰ってきた所長と話し合いを持って、覆らせた。ボクには立場上、権限は無いのだが、実質、事務所の売上はボクで持っていた。
 ボクの意見が採用されたのだ。

 所内でのボクと彼女の関係は上手くいっていたと思う。この頃のボクは業績を上げることに一所懸命で輝いていた。それに対して彼女も好印象を持ってくれたと自負している。互いの誕生日にプレゼントの交換をし合ったりした。
 その後自分が所長になって、市場との戦いから数字との戦いに考え方が変わった。管理職になって、いつしか余裕の無い、詰まらない人物になってしまったのかと述懐している。
 以前の明るく前向きな自分でなくなっていたと気づくのは遅かった。彼女のボクに対する気持ちも離れていった。それは転勤で郡山を離れても直らなかった。

 「ボクは君が考えているような人物ではない!」と叫んで、イメージを回復したいと思っても今となってはどうしようもない。
 一番最初に会った時、24歳だった彼女も今日41歳になった。まだ独身のようである。  


2008年10月15日 Posted by 杜の都の素浪人 at 10:39Comments(0)忘れられない女性達

王監督の背中ばかりを見ていた

 ボクが野球を始めたのは小学4年の時、昭和46年であった。ボクより上の世代は長嶋選手のファンが多かったのだろうが、その当時は衰えが見え始めてきた頃だった。
 変わって全盛期に入っていったのが王選手だった。テレビの野球中継を見ても、ホームランを打って勝利に結びつく姿を幾度も見た。ベーブ・ルースの伝記の影響もあるだろうが、ヒットを重ねるよりもホームラン一発に魅せられていたのだ。

 昨日は仙台のKスタ宮城で、楽天vsソフトバンクの最終戦が行われ、王監督がユニフォーム姿を披露するのが、おそらく見納めになる日であった。
 巷では、第2回WBCの監督就任が囁かれているが、王監督の性格からして無いとボクは読んでいる! 

 この試合で、負けた方が最下位になるというチーム同士のゲームには思えなかった。先発はソフトバンクが左腕杉内。対する楽天はマー君である。両投手とも目的が違えど、胸に秘めるものがあったのだろう。
 9回まで、杉内、マー君が互いに譲らず延長戦へ突入した。
 王監督の熱烈なファンとしては、長くその勇姿を見ていたいから、延長12回までとは言わず、決着がつくまでやってくれないかなと思った!

 延長に入ってもスリリングな好ゲームだった! 1イニング1イニング両チームが勝利に賭ける執念が浮き彫りになっていた。
 試合は、引き分け目前の12回、草野が左中間への二塁打で出塁してチャンスを作った。打席には山崎武。いつも苦杯を舐めているソフトバンク馬原の2球目を振り抜くと打球はレフト前へと抜け、緊迫感がひしひしと伝わる試合は、楽天ゴールデンにイーグルスのサヨナラ勝ちで、幕を閉じた。

 この結果、楽天ゴールデンイーグルスは5位。負けたソフトバンクは6位で全日程を終了した。それにしても王監督のラストゲームを飾る一戦は、両チーム無得点で延長戦にもつれ込む大熱戦、激闘であった。
 ドラマの筋書き以上の舞台であった。王監督は、最後は丁寧にベンチ前で一礼し、長年親しんだグラウンドに別れを告げた。

 試合終了後の王監督のインタビューで、「ファンに支えられてきた50年間でした。」と穏やかな笑みを漏らし、感謝の言葉を繰り返した。
 その顔は一昨年の胃がん手術の影響もあるだろうが、頬が異様に痩せ細っていた。もうこれ以上、身を刻まなくても良いんじゃないかと思った。

 王監督は、巨人時代に1度、ホークスで3度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。しかし唯一、心残りと言うか、果たせなかった実績は巨人軍の監督としての日本一に成れなかったことなのかも知れない。
 その年は昭和62年である。桑田がエースの成長し、江川が引退した年。そしてこの年にボクは郡山に着任してきた。21年前の話であるが、新しい環境の一年目というのは何かと記憶が鮮明である。

 早く仕事を覚えなければならない、環境に慣れなければならない...。郡山の最初の年はそんなことばかり考えていた。
 その時、王監督は47歳...今のボクはその年齢に近づいている。感無量!!
 

 王監督が球場を去って、昭和の良き時代を思い出すことも少なくなるだろう。今年は桑田の引退に始まり、野茂、清原と相次いだ...。
 彼らの後の世代の野球ヒーローに、古い野球観を持つボクは胸躍らすことはないだろう...。

 王監督の雄姿をいつまでも眺めていたい。 ありがとう王監督 
  


2008年10月08日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:43Comments(0)郡山での思い出

清原引退と長渕の熱唱 「とんぼ」の持つ本当の意味

 プロ野球界では今年は印象に残る選手の引退が相次いだ。桑田、野茂に続き、予想はされていたのだが清原である。
 昨日1日の京セラドームで行われたオリックスの清原和博内野手の引退セレモニーには、清原が兄貴と慕う親交の深い歌手の長渕 剛がスペシャルゲストとして、一塁側からタンクトップ姿でギターを掲げ、清原のもとへ歩み寄った。
 「清原和博のために、歌います。」と一言の後、打席に入る際のテーマ曲の「とんぼ」を熱唱した。

 長渕 剛のことはそんなに詳しくはないが、郡山に転勤してきた昭和62年からは、彼が一番輝いていた頃だったと記憶している。
 丁度、俳優業にも進出し、テレビドラマにも積極的に出演していた頃だったと思う。確か「親子ジグザグ」は見ていた。主題歌の「ろくなもんじゃねえ」は夜のスナックでよく歌っている人が多かった。
 「ろくなもんじゃねえ」の冒頭の「ピピピッー、ピピピッー~~」が頭から離れない。やはり、ボクが郡山に赴任した年に流行っていたからであろう。

 医療機器業界はバブル景気では大きな恩恵を受けたとは思っていない。それでも周囲の業界の雰囲気が明るかったためだろうか、釣られて陣屋にはよく出向いたものだった。

 翌年、長渕は「親子ジグザグ」のコンセプトの発展形のドラマ「とんぼ」に出演した。その主題歌が同名の「とんぼ」なのである。
 ただ。その時は特に良い歌だとは思わなかった。これは曲のジャンルがボクの嗜好に合わなかった為であり、無知から来るものである。

 「とんぼ」が有名になったのは、清原が巨人時代からバッターボックスに向かう時に流すようになってからである。少なくともボクはそう思っている。


 可愛い弟分の清原が引退する日。長渕は、清原に向かって全身全霊をかけたライブを行った。清原は入団当初将来を嘱望され、王の本塁打記録を抜くのではないかと騒がれた。
 しかし若い頃の不摂生からか、身体に故障を抱え込むことが多くなり野球人生後半は、挫折の連続だった。
 長渕も音楽業界で多くの不条理を味わったらしい。「とんぼ」を作った時、何を思っていたのだろうか?

 共にそれぞれが、音楽界、野球界で栄光と挫折を味わった。その時間を共有し、戦い続けてた盟友に対して、送り出す言葉には、「次のステージがすぐ待っている、泣いてはいられない」という激励のメッセージだったのかも知れない。

 白球という幸せの“とんぼ”は、一体、どこへ飛んでいくのか?
  


2008年10月02日 Posted by 杜の都の素浪人 at 23:30Comments(0)旬な話題

須賀川のきうり天王祭

 秋の季節は各地で、豊穣を祝う秋祭りがさかんに催されている。東北の祭りと言えば8月上旬の暑い盛りにされるのをイメージするが、秋の祭りも仲々、情緒のあるものである。
 今日は郡山に住んでいた頃の思い出ではなく、去年の話をしたいと思う。

 昨年の6月末でサラリーマン生活を終え、暫らくはゆっくりしようと思っていた。8年前に転勤で郡山から出ていっても何人かとは定期的に連絡を取っていた。
 その中の1人か「7月に須賀川できうり祭りがあるから見に来てみれば...。」というメールが入って、興味があったので須賀川まで車を走らせた。

 それまでそのような祭りがあることも知らなかったが、須賀川市では、毎年7月14日の夜に、“きうり天王祭”という宵祭りが賑やかに行なわれるそうだ。
 と言うか、須賀川市がきうりの産地だったことも知らなかった。

 この祭りは、昔この地方に悪い病気が流行した時、岩瀬神社に祀られてある”牛頭天王”のたたりだとして、この地方でとれるきゅうりを供えて祈ったところ、病気がおさまったという伝説を元にしている。

 この祭りを境にして、浴衣を着る風習があって、市内や近郷から新しい浴衣姿の家族ずれなどの参詣人がつめかけてごった返し、参道となる旧国道には、綿あめ・おもちゃ・金魚すくい・植木やなどの露店がならび、客寄せの声に、須賀川の初夏の夜は更けていくとなっている。

 仕事ではよく行っていたが、須賀川のホテルには泊まったことがない。久し振りに市街地を廻って懐かしい思いに浸っていた。
 よく行っていた病院、クリニック、猫病院などがあって、何とも言えない甘酸っぱい感じがした。

 連絡をくれた彼女がホテルまで迎えに来てくれた。彼女のお母様は大病を患ってずっと入院している。その看病で疲れているだろう、彼女は痩せ細ってしまった。まるでメソセラピー手術でも受けたかのように...。
 残念ながら、去年のきうり天王祭は朝から小雨が降っていたが、ボクと会うことを喜んでいたのだろうか、彼女は妙に張り切っていて、デジカメで思い出を撮っていた。
 楽しい時を過ごせてはいたが、ボクが帰ればまた彼女は看病生活が待っている。それを考えると何とも健気な感じがした。

 次の日、昨日の彼女との祭りの時の一瞬一瞬の出来事を思い出しながら須賀川の街を去った。

 その彼女のお母様は病状が芳しくなく、治療の為、東京の病院に入院されているとのこと。付き添いで彼女も行っている。
 再び会える日が来るだろうか...。  


2008年09月29日 Posted by 杜の都の素浪人 at 19:55Comments(0)須賀川での思い出

衝撃的だった逸見政孝のがん告知会見

 毎週日曜煮の午前中に「いつみても波瀾万丈」という番組が放映されている。今回の番組改編で16年半の歴史を閉じる事になった。
 「いつみても~」の“いつみ”は逸見政孝アナウンサーの名前からモジったものである。

 逸見政孝アナウンサーと言えば、93年のがん告知会見が印象に残っている。この年ボクは、営業所長役を仰せつかった年である。本社からは部下を1名貰った。
 所長職とは、毎月毎年、営業目標額を突破することと純粋に思っていた。同時にまだ31歳の若さではあったが、後輩を育てて、事業所としてもどんどん大きくしていく...。そういう純粋な気持ちで一杯だった。

 ただ本社から繰り出された人間は新人である。すぐには売上に貢献しない。暫らくは自分の成績イコール営業所の成績であった。それでも後輩の成長を手助けするためには、色々相談に乗り、彼の担当区域にも同行してアドバイスをした。

 その日は白河の個人病院にいた。目的は部下への営業援助だった。いくら新人とは言え、4月の転勤から間もなく半年が過ぎようとしている。まだ彼には販売実績が無かった。
 何故売れないのか? 彼に同行して営業している姿を見て、悪い箇所は修正してやろうと思っていた。

 待合室で院長先生への面会をする為、何気なくテレビを見ていた。そんな中での逸見政孝のがん告知会見であったのだ。
 時期的には丁度この頃だったと記憶していたのだが、調べてみると9月6日午後3時に、各局のワイドショーで生中継された。

 医療機器販売者としては、逸見政孝の会見で言った、スキルス性胃ガンに興味があった。それよりも衝撃的だったのは、逸見は多分、自分が助からないだろうと悟っていたのではないか? それでもテレビ人間として弱音を吐けない。自分が出来る事は全力でやってみることが視聴者への恩返しと思ったのだろうか?
 逸見のはっきりとした口調は忘れられない! それに怖かったであろう!勇気ある会見だった。この場に及んでも病気のことで番組に穴を開け、多くの関係者に迷惑がかかることを気にしていた。

 これから3ヶ月間のがん闘病生活を送るという。がんと闘う決意表明に感動すらあった。この時期、そろそろ秋風が寒く感じる時期になると、白河で見た逸見政孝アナの会見を思い出すことがある。

  


2008年09月23日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:34Comments(0)白河での思い出

昭和の出来事  in郡山

 ボクが郡山に赴任してのは、昭和62年6月であった。昭和最後の日は翌1月7日であったから、郡山で暮らした昭和の時代は、のべ566日である。
 住み始めた昭和62年に、どんな事があったか思い出してみると、プロ野球界ではプロ入り2年目の巨人の桑田が快進撃をし、この年の沢村賞や防御率1位のタイトルを獲得した。
 パ・リーグでは近鉄・阿波野と日本ハム・西崎が激しい新人王争いをした。まだ自分も25歳だったので、プロ野球が面白いと感じていた時期だった。
 そう言えば、クロマティが中日・宮下にグーパンチを放って大乱闘になったっけ...。

 政治の世界では、5年の長期に渡った中曽根政権が終焉し、ニューリーダーと呼ばれた3者会談が不調に終わり、中曽根裁定で、竹下が指名されたなぁ~。3人とも主張ばかりして懐が浅いところを見透かされて、中曽根が一定の発言力を保ったように映った。
 総理大臣も小粒になったなと事務員と話した記憶がある。

 開けて昭和63年は、ソウルオリンピックがあった年だ。柔道の斉藤や水泳の鈴木大地が金メダルを獲ったことを憶えている。かつてのお家芸競技だった体操は、池谷、西川の高校生コンビが活躍して3大会ぶりにメダルを獲った。隔世の感がある。特に柔道の斉藤は、今や人気者の石井 彗選手の指導をしている。
 ソウルオリンピック最大のスキャンダルは、ベン・ジョンソンのステロイド使用による金メダル剥奪であった。アナボリック・ステロイドという言葉は瞬く間に流行った。あの時に出した9.79という記録は、暫らく破られないだろうと予想していたのに、ウサイン・ボルドがあっさり更新した。

 プロ野球では「10.19」近鉄Vsロッテのダブルヘッダーに川崎球場は満員になった。普段10月になったらテレビ中継をしないはずなのに、テレビ朝日がそれまで放映していた番組を中断して、プロ野球中継に切り換えた。
 この「10.19」については、いずれ時代背景を織り交ぜて解説してみたいと思う。

 これらの出来事(もっとあるのだが...)は自分の記憶に鮮明に残っている。そんなに遠い昔の出来事のようには思えないのだが、21年前の話になる。
 もしその時、子供を設けていれば21歳になる。人の姿を見て、自分が年を取ったと思うものだ...。

 もう体力がかなり衰えている。全速力で走っても50メートルも走れないだろう。体力だけではない! 確実に頭髪は薄くなり、視力はボケてきている。歯もボロボロ...。
 認めたくはないのだが、そろそろ育毛剤コンタクトレンズのお世話になるのだろう。  


2008年09月18日 Posted by 杜の都の素浪人 at 23:10Comments(0)過去の出来事

瞬時の再会、そして...

 昨日綴ったクエストビル6Fの「Dips」にはその後も何度か通った。手取りで20万を超えることがなかった若造サラリーマンには安いラウンジしか行く所が無かったのだ。
 店の雰囲気も良かったし、何と言っても可憐な娘の顔を見に行くのが楽しみだった。

 昭和天皇が崩御し、元号は「平成」に変わった。自分が若いということもあったのだが、新しい時代を迎え、毎日が太陽が燦燦と輝いていた印象がある。
 4月頃だったか、郡山市体育館で「全国生理検査技師会総会」(正式名称が思い出せない...)の展示会を行った。
ボクらは展示説明員になっていたのだが、全国から来るお得意様の入場整理が出来ない。本来、事務員がすべきものであるが、華が欲しかった。それで彼女にダメ元で、受付嬢を依頼した処、快く返事をくれた。
 展示は3日間だったかな? 可憐な娘が身近にいるので、機械の説明をしていても楽しかった。彼女も本社から来た先輩や同僚と打ち解けていた。
 確か搬入作業の時に、要らなくなった「受付台が欲しい。」と言われ、彼女の実家の近くまで運んでやった記憶がある。意外にもすぐそばであった。

 さて、昨日の記したが「Dips」のホステス総入れ替えに伴って、可憐な娘とは別れなければならない時を迎えた。
もう会えないだろうと思うと凄く残念であった。
 その後一度、陣屋の駐車場で見かけたのだが、同じ店に勤めていたちょっと太った体型の元ホステス(同級生)と一緒だったので、邪魔をしては悪いと思って声はかけなかった。

 そのちょっと太った体型の元ホステスは、今や郡山では有数のスナックを経営している。大したものだ。その店には何度も行っていた。まぁ、常連と呼ばれるであろう。

 ミレニアムの年、ボクは転勤を命じられた。郡山から離れるのが辛くてお酒を飲む回数が増えていった。もう郡山にもあと2週間とない4月3日? 太目のママが音頭を取ってくれてボクの為に送別会を開いてくれた。
 ボクの為に歌を歌ってくれたホステス。わざわざピアノを習って演奏してくれたホステス...。彼女達は皆、良い子だった。

 それにも増してびっくりしたことは、同級生のあの可憐な娘を呼んでくれたことだ!! 既に結婚していて家庭があるのに時間を割いて来てくれたのだ。10年振り以上前の再会であった。
 男は単純な生き物なので、昔の面影を追い求めるものだ。独身の時の痩せていて...。久々に見た彼女の顔はそんなに変わっていなかったのだが、横に広がっていた。
 求めるものが高すぎたのかも知れない。

 人は歳月を重ねれば変わるものだ。明るい性格や歌の上手さは更に磨きがかかったようだ。彼女も再会を喜んでくれた。偶には外に出てハメを外したかったのだろう。とても楽しいひと時だった。彼女は結婚してから数年経つらしいが、まだ子供が出来ないそうだ。
 酔いも手伝ってか、段々昔の面影になったような気がする。スタイルを維持するサプリメントのことについては、あまり詳しくないが、今ならプエラリア・ミリフィカとか明日葉などが効き目があるだろう。
 それを若い頃から飲んでいれば、彼女もそう変わらなかったのではないか? まぁ、幸せな証拠なのだろう。

 楽しい時間は早く経つ。いずれまたの再会を誓って店を出た。それからは会っていない...。

 全く関係ないが、その日の深夜、当時の小渕首相が脳梗塞で倒れた日だった。「平成」の書板を持った小渕さんだ。良い切れ目だったのかも知れない...。

  


2008年09月14日 Posted by 杜の都の素浪人 at 20:41Comments(0)忘れられない女性達

クエストビル6Fの思い出

 ひょんな出逢いで県会議員をされているW氏と知り合うようになった。今でもそうかな? その彼がオーナーを務めている陣屋の「クエストビル」にはバブル全盛時によく行ったものだ。
 社用族という言葉が流行っていた頃、ボクは下っ端の人間だったからその恩恵には預からなかった。商談を兼ねた接待の場を作って、当時の所長を連れて行き、そこの店は会社の経費にして、お客さんと別れ、2次会のプライベートで飲みに行った所が「クエストビル」だった。
 
 当然、経費は使えないから安い店を捜していたのだが、クエストビルにはそういう店が多かった。そのビルの6Fに「Dips」(今はもう無い!)という店があって、ピアノ演奏あり、接客してくれるホステスのドレスが素敵で何度か行っている。

 初期の頃の「Dips」の話だが、一人で行った時はカウンターに座る。カウンター越しに4名のホステスが向かい合わせで接客してくれた記憶がある。時代は昭和63年だったと思う。
 その中の一人が可憐だった。4人の中でも断トツで可愛らしかった。当時のボクは変に構えているところがあって、ホステスの言葉は営業言葉だから、決して本気にしてはいけないと思っていたのだ!

 バブル全盛の頃の陣屋は、お金が飛んでいた。もっと昔のホステスみたいに会話が出来て...云々はあまり問わなかった。ルックスが良ければ採用という感じがあった。
 その可憐な娘もそういう雰囲気を漂わせていた。というよりこの世界は場違いな印象があった。彼女もそれを自覚していたようで、「早く結婚したい。」といつも言っていた記憶がある。

 お店の事情は分からない。また一人の客として店の裏側を突っ込むつもりはない。4人のホステス全員が辞めることになった。
 「えっ??」と感じで凄く驚いた。4人にうちの2人は名前も憶えていない。可憐な娘ともう一人、ちょっと太った体型のホステスは同級生だったようだ。その娘は自分で店を開く為、準備に入るという。オープンには可憐な娘も手伝いに来てくれるということで、名刺を渡して連絡先を教えた。

 「Dips」でもお勤め最後の日に、会いに行った。可憐な娘ともう一回会えるかも知れないし、これが最後かも知れない。
 とにかく切ない気持ちを抱きながら、最後の夜を惜しんだ。縁があれば再会するだろう。

 その時はそう思った。その後、まさかの再会をするとは思わなかった。かなり細い糸であるが、長く頑丈な糸であったのだ。  


2008年09月13日 Posted by 杜の都の素浪人 at 17:09Comments(0)忘れられない女性達

石原裕次郎が死んだ日

 郡山に住んでいた13年間を一日一日記憶していることは無理であるが、何日かは鮮明に憶えているものだ。
 石原裕次郎が輝いていた昭和30年代の映画全盛期の頃はさすがに知らない。我々の世代では石原裕次郎と言えば、「太陽にほえろ」のボス役でしか知らない。それだけでも芸能界の大御所という印象を持っていたものだ。

 昭和62年6月に郡山に転勤して、まだ1ヶ月も経たない7月17日。その日は朝から気温がどんどん上がっていくのを肌で感じていた。まだ赴任したばかりで何をして良いか分からなかったが、丁度、先輩から「仕事、手伝ってくれ。」との依頼でいわき市内の産婦人科医院に行くことになった。その前の仕事が手こずってしまって、予定より遅く熱海から向かった。
 自分の担当区域の中に、いわき地区は入っていなかったので道に迷うのではないかと心配した。その為、かなりスピードを出して運転していた。
 ラジオで緊急ニュースが流れた。「石原裕次郎さんが亡くなりました...。」

 結構ショックだった。ボクは全盛時代を知らない筈だが、芸能界を震撼させるニュースだと思った。いわき市内の産婦人科で待ち合わせしていた先輩とも、石原裕次郎の話題で持ちきりだった。
 医院内に入り、デモで貸していた装置を引き揚げる時も、院長先生までも話題を振ってきた。自分の担当区域でない気軽さで、ついつい話に夢中になった。
 当時のクリニックにはそういうホンワカとした雰囲気があったものだ。今みたいに患者から訴えられるんじゃないか、投書されるんじゃないかというビクついたところは皆無であった。

 その装置は仙台営業所からの借り物である。その日は金曜日で翌日は休み。そのままいわきから仙台に向かった。
 つい1ヶ月前まで勤務していた仙台営業所に装置を返しに行き、そのまま同僚と国分町の馴染みの店に突入した。
 この日はやはり石原裕次郎の話題ばかりであった。暑い一日だった。

 
 後日、いわき市内の産婦人科医院から注文を貰った。勿論、装置の良さを評価してくれたのだが、装置を引き取りに来たボクとの石原裕次郎の会話が楽しかったという理由もあったらしい。
 ボクの実績にはならないのだが、嬉しかった記憶がある。
   


2008年09月09日 Posted by 杜の都の素浪人 at 19:11Comments(0)いわきでの思い出

昭和最後の年に出逢った女性

 男と女には出逢いと別れがある。男はいつまでも過去の思い出を大切にするもの。男は女々しい生き物かも知れない。女は意外とアッサリしているように見える。既に未来に向かって歩いているのだろう。
 よく言われることだが、長年連れ添った夫婦で、先に奥さんが死んでしまうと残された男は悲観に陥ってしまって、気が抜けたようになる。
 逆の場合は、そうならない。泣いているのは葬儀の時だけ...。翌日からは生命保険にかけていた補償金の計算をしているものだ。明日からどう生きようか、男には無い逞しさがある。

 このブログで過去の忘れられない出逢いのことを書くのは情けない気もするのだが...。回想録を書くのには早過ぎる...。いや、そんな大層なものではなく、綺麗な思い出のまま綴っていきたいだけなのだ。

 最初の出逢いは昭和63年8月だった。20年前か!! 当時、郡山駅前の寿泉堂綜合病院で大きな商談が纏まった。時代はバブル景気に入るところではあったが、医療業界ではすぐには恩恵が来なかった。
 接待をしたのだろうか? それすら忘れてしまったが、当時の所長と本社からの援助員と3人で2次会へ行った。特に行くべきお店は無かった。

 当時の所長はあまりお酒を飲むタイプの方ではなかったのであるが、仕事という面から考えると、接待する店の一つや二つ持ってないといけない空気があった。
 2次会はそういう意味で、接待出来るラウンジを捜そうということで、エリート11ビルの4Fに行った。何故、4Fに行ったかには理由はない!! 感である。

 ドアを開けると明るい声が聞こえた。それがママとの初めての出逢いであった。年齢はボクとそう変わらなかったであろうが、さすがホステス! 接客業は長けていた。
 営業面から見ても勉強になるなぁと思っていたのだが、我々に対しては素の状態で接してくれた。客としてみれば、それが嬉しいのである。
 そのときは他愛のない会話内容だったと思うが、またプライベートで来てみたい気持ちにはなった。

 その時は所長がお金を払ったので、いくら掛かったかは分からないが結構高かったであろう。ボトルは入れたから次回はセット料金で済むなぁと思ったが、それでも当時の給料から鑑みれば、そう1ヶ月に何度も来れないだろうと思っていたものだ。

 後になってあれだけ親しくなるとは、その時は思わず、1回目の訪問は終わった。
  


2008年09月03日 Posted by 杜の都の素浪人 at 20:49Comments(0)忘れられない女性達

開成山球場の思い出

 ボクが郡山でサラリーマンをしていた時の事務所からは、春になると開成山からの桜の花々が綺麗に見えた。事務所は丁度、桜通りを挟んで向かい側に位置していた為だ。
 4月の中旬くらいになると、仕事を終えると部下の連中とよく一周したものだ。

 開成山には球場がある。福島県の高校球児には御馴染みの聖地かも知れないが、ボクには年に一回来る巨人戦の東北シリーズとしての開成山球場と思っていた。
 当時、まだ中畑選手が現役だったので、地元への凱旋試合という位置づけだったと理解している。残念ながら1軍の試合は見る機会が無かったが、2軍戦は見たことがある。
 もう15年くらい前の話かなぁ~~。

 生命保険会社が2軍戦のチケットを持ってきたのだ。「2軍戦なんて...。」という気持ちが強かったが、ディーラーの人が野球好きなこともあって、付き合うことにした。

 カードは「巨人Vs日本ハム戦」だった。 2軍戦と言っても、豪華な選手がいた。巨人は1軍から落ちてきた木田や村田が出ていた。木田がホームランを打った。対する日本ハムも長嶋一茂の1学年下の後輩、矢作が出ていた。また。松商学園から入団した上田も帰りのバスの中でチラッと見た。 (・_|
 まだある! 巨人に入団した、その当時は投手だった吉岡を直に見た。その日の吉岡の登板は無かったが、観客サービスとして、ブルペンで顔見世程度のピッチングを披露していた。
          (`=´)/~~~~~~
 さすがプロの選手である。鍛え抜かれた身体をしていた。

 宮城県人なら忘れもしない’89年全国高校野球決勝戦。仙台育英Vs帝京...。
        ○0o。( ̄∇ ̄〃)y--┛
 仙台育英が終始試合をリードしてきたと思われていたのだが、あと1本のヒットが出ず延長戦へ突入。
大越投手が10回に2点を取られて、仙台に深紅の優勝旗をもたらすことは出来なかった。
 その相手チームの投手が吉岡だった。 …((o(-゛-;)
 あの時は、福島県立猪苗代病院で、仕事が手につかずテレビを何度も見ていた。( →_→)

 その後、吉岡は巨人に入団したが、投手としては芽が出ずバッターに転向した。それでもレギュラーが取れず近鉄へトレード、更に楽天イーグルスの誕生で、楽天へ移籍した。
 ボクはここの365ブログの他に「楽天イーグルスの応援ブログ」を別の紙上に、掲載している。

 何とも、変な繋がりである。繋がりと言っても吉岡選手はボクの存在なんて知らないだろうが...。
一方的に繋がりと...と思っているだけである。  


2008年08月30日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:44Comments(0)郡山での思い出

郡山で出逢った忘れられない人々

 オーバーな表現をすれば、地球上に住んでいる多くの人々の中から郡山で、選ばれし人々と出逢った。出逢わなければ得られなかった素敵な出来事や感情は忘れられない。
 一緒にゴルフや食事をした人々、結婚して家庭に入った人、志半ばにして不慮の事故死をした女性。よく食べに行った飲食店...。
 皆、それぞれの人生を精一杯生きている。過去にもこれからも一人一人に様々なドラマがある。

 郡山 ここでは色々な女性と出逢った。これから先の人生、彼女達にどんな出来事が待っているのか解からない。時として、生きていくのが辛い、なんて思うこともあるかも知れないが、生きていけばきっと、何か良いことある。
 この地で、出逢うべく出逢った彼女達。そして今、ボクは仙台に住んでいる。彼女達は、きっと新しい出逢いを見つけ、僕も同じように誰かに出逢う。そしてどんどん会えなくなっていく。

 だが、これだけは願っている。幸せになって欲しいと...。


 偶にではあるが、仙台の地から彼女達の顔を思い浮かべる時がある。それに伴った美しい思い出も蘇る。その時は心が穏やかになる。
 良い事、悪い事全て含めて、これからの新しい人生の足場を作らされた場所。郡山は、成長する糧を与えてくれた街だった。
 思い返せば、何と素晴らしい時を過ぎしてきたのだろうか。戻らぬ面影に、思い焦がれて心が揺れる。

 それは、決して色褪せる事がないだろう。もう少し、この中で縛られていたい。  


2008年08月29日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:18Comments(0)忘れられない女性達

県立大野病院 帝王切開手術死亡事件を思う

 丁度一週間ほど前のことだろうか、マスコミを賑わしていた福島県立大野病院の帝王切開手術死亡事件で、執行医師に無罪判決が言い渡された。
 ボクは県立大野病院には新病院になる前によく通っていた。かつて医療機器販売業界に携わっていた者として、一言述べてみたい。
 ちなみに執刀したK医師とボクは全くの面識はないので、損得は無い!


 不幸にして出産の最中に命を落としてしまう妊婦はどれくらいいるのだろう。福島県立大野病院の帝王切開手術事件の詳細に関してはネットで検索すれば、大量の記事が出てくるので省略する。
 
 裁判の争点は、癒着した胎盤を剥がすことで引き起こされるかもしれない大量出血を予見し、子宮を全摘しなかったことである。この妊婦さんは「前置胎盤&癒着胎盤」だったそうだ。

 前置胎盤とは、子宮口を胎盤が覆っている状態である。つまり、赤ん坊の出口が無いので、通常のお産は無理なので、帝王切開になる。
 癒着胎盤とは、胎盤組織が子宮の中に食い込んでいる状態である。普通は、胎盤を剥がすのがセオリーだそうだ。
 この二つが合併するケースは非常に稀で、産科医でさえ、一生にそう何度も遭遇するものではない。

 そのような背景の下、担当産科医は不測の事態を予見出来たか? それを問われるのは些か、酷な感じがする。そう考えれば、「無罪判決」は妥当なところである。
 また一刻を争う状況の中で、女性らしさの象徴である子宮摘出を、躊躇わずに出来るであろうか? 後で予期される患者さんへの納得いく説明も大変であろう。

 但し、患者さんのご遺族の心情を察すると、理不尽な死だった...。ご遺族の悲しみはいつまでも続く。
 産科医は今回の判決で無罪を言い渡されたが、それまでの社会的制裁は骨身に沁みた筈だ。

 この事件で、医学部研修生が産科医になることに躊躇しているというと言うほど、社会的関心が高くなった。
 そのような事態に遭遇した時、命を助ける為に最善を尽くしたかどうかは今となっては分からない。

 事故なんか起こり得る筈がないと思っているご遺族。患者の命を助けることは当然であるが、産科医にしてみれば、レアーケースの場面で、いかに患者を救う努力をしたか? は問われて当然だが...。

 ご遺族の方々は、「真実を知りたい!」ということで裁判を起こしたわけであるが、これで納得したであろうか? 数百の客観的な意見を述べる者と、ご遺族の方々では重みが違う。控訴されるかどうかは、ご遺族の意思だ!! 

 処で昨日、利害の被る超党派の国会議員が控訴を断念するよう要請したのはおかしい!! 裁判は原告人のものである。第三者がとやかく言うものではない。
 
 マスコミの風潮が偏ったものに成らなければ良いのだが...。 言っておくが、これは、うっかりミスの医療事故とは全然レベルが違うものだ。そこは混同してはならない。
  


2008年08月28日 Posted by 杜の都の素浪人 at 09:36Comments(0)旬な話題

郡山で旨いラーメン屋さん My Select

 昨日の続き...。

 今年の8月は7日から9日まで郡山に滞在していた。9日は仙台へ帰る移動だったので、実質2日間である。
ホテルに連泊すれば、メイドさんが部屋の掃除をしなければならないので、仕方なく11時頃部屋を出た。本当は、そのまま部屋のベッドで寝転びながら、北京オリンピック関連の番組でも見ていたかったのだが...。

 ホテルを出ると、目の前はさくら通りになる。そこを駅から反対側に車(あっ、これ代車ね!)を走ると、国道49号線に交わり、更に新さくら通りとなる。
 そこから、郡山で8年前まで住んでいたアパートの外観を確認する。外装したのか分からないが、21年前の建物にしては新しく見えた。
 
 よく行っていた本屋、CDショップ、コンビニ、食堂が無くなっていた。新しく出来た建物もあった。万物流転、いつかは消えてしまうことは頭の中では理解しながらも、それを受け容れられない自分がいた。
 思わずビートルズの「イン・マイ・ライフ」の歌詞のフレーズが出てきた。

    生涯忘れられない場所がある   姿を変えながらもささやかに
    生き永らえているところ       消えてしまったところに そのまま残っているところ


 丁度、昼過ぎに郡山に来ると必ず寄るラーメン屋さんがある。郡山に住んでいた頃はよく日曜日に食べに行っていたものだ。
 コスモス通りを走り、小さい角を曲がると、「左馬」という店がある。素朴な麺であるが、店長が丁寧に練っているのが、舌の感触ですぐに分かる。郡山での思い出と共に食べ始めた。

 久し振りだから店長に声を掛けようと思ったが、止めた。店長はオレのこと覚えているだろうか? 
 以前、食事を終えて、真冬の駐車場でボクの車のバッテリーが上がって困っていたところ、ブースターを繋げてエンジンをかけて貰ったことがあったなぁ~。

 でも、話し掛けず、ただひたすら麺を啜るのも良いものだ...。いつまでも残っていて欲しい店だ! 

 ラーメンは味、その人の味覚で、旨いかそうでないか評価が割れる。何度も通っていたラーメン屋ではその時々の思い出も加味される。
 自分の贔屓はあるが、こういう素朴で人情味が滲み出ているラーメンが好きだ。  


2008年08月27日 Posted by 杜の都の素浪人 at 15:18Comments(0)旨い店探訪