郡山で旨い焼き鳥屋さん My Select

 13年も住んだ郡山市には物凄く愛着がある。ボクは、毎年8月初旬は、郡山で過ごしている。表向きの理由は、自家用車の点検と保険の更新である。
 ボクの車は、平成2年に購入したセリカ GT-FOURである。ナンバープレートはいまだに「福島ナンバー」になっている。だからというわけではないが、点検と保険の更新は、以前購入したディーラーに依頼している。
 点検と保険の更新は、別にわざわざ郡山に来なくても済むのだが、何か郡山へ行く理由付けをしているのだろう。
 まぁ、その営業担当者にも義理がある。エアコンの具合が悪いので、来年は新しい車を購入するだろう。

 ホテルは駐車場の広い所にしている。ホテルアルファーワンを予約した。向かいは合唱コンクールで全国的に有名な安積女子高である。
 ホテルにチェックインしてからの時間は大切にしている。出来るならば1時間が3時間くらいの感覚で進めば良いと思っている。
 郡山で過ごしている時間が少しでも長ければと思っている。

 夜は当然、かつて良く通っていた飲み屋に行くしかない! 俗に陣屋と呼ばれる一帯に、焼き鳥の旨い店がある。「やきとり大助」だ。
 大将は一見、とっつき難い感じがするのだが、そこは職人だ。職人は旨いものをお客に出すのに専念すれば良い。まぁ、ボクとは顔馴染みであるから、すぐ微笑んでくれた。言葉数は少ないが、それで良いのである。
 お通しから冷奴、スライストマト、納豆油揚げ...何でもボクの味覚を刺激する。

 ボクが郡山に在籍していた時は、日本酒はあまり旨いとは思わなかった。失礼だが福島県にそんなに旨い日本酒があるとも思わなかったので注文もしなかった。
 でも今は、郡山に戻られて酒造りに精を出していらっしゃる方々がたくさんいて、旨い酒が出回っている。ボクが一番気に入っているのは、「飛露喜」である。でも残念ながら「やきとり大助」では品切れだった。
 
 大将に聞いて、「国権」を注文した。日本酒には詳しくないのであるが、大将が勧めた酒だ。間違いないだろう。飲んでみれば、香りもあって味が膨らむと言うか...つまみによく合うお酒だった。ちょっとキツいから調子に乗って2杯3杯といくと回ってしまいそうだ。
 余韻も心地良かった。この酒、旨いっ!「飛露喜」も旨いが「国権」も旨い!!

 締めは、この店の特製のたれを付けて、他の店より一回り大きな焼き鳥を頬張った。大満足の一日であった。
  


2008年08月26日 Posted by 杜の都の素浪人 at 16:58Comments(0)旨い店探訪

会津人の人柄

 郡山に転勤して、よく営業に通っていたところは会津地方だ。今でも色々な人の顔が浮かんでくる。決して忘れられない人達ばかりである。

 きっとそれは、自分の人生の中で一番元気のある時代に過ごし、たくさんの人々と良い出逢いが出来たからなんだろう。

 「出逢った。楽しかった。そして良い思い出だけが残った」と思い込んでいる!!

 仕事の都合で福島県に転勤された方々は、会津地方での営業に苦労されると思う。ボクは医療機器関係の仕事をしていたので、49号線沿いに聳え立つ総合会津中央病院や、山鹿町の竹田綜合病院、同じく県立会津綜合病院には、毎日のように通った。

 それまでも仙台営業所勤務時代から援助のため、顔出しはしていたので、職員とは顔馴染みの方々が多かった。
 着任の挨拶をしても、「そう、今度から郡山なんだぁ~。じゃあ、いつでも来てくれるんだね。」と歓迎された。
 これが初対面だと、仲々こうはいかないものだ。

 特に山口県出身の営業マンには心を開いてくれないのだ。戊辰の役の時には、会津の人間は悪者扱いにされたシコリがまだ残っているからだ。
 
 常識がある人ほど、そんな100年前の話をまだブリ返しているのか? と思われるかも知れない。正確に言えば、両親や祖父母、またその親からの一途な思いがDNAとして流れているのだと思う。
 無責任なインテリ層には、不器用な生き方と映るかも知れないが、ボクはそういう会津の人達が大好きだ!

 信用されれば、物凄く頼りにされるし、そうでなければ無視される。

 飯盛山の姿が見える、強清水あたりを過ぎると会津の空気に包まれてくる。

 ボクも同じ東北人だから...という驕る気持ちはなく、信用得る為には何でもした! 着任してから初めてお会いする方々も多かったからである。やがてそれが実を結んだわけである。
 会津の人達に、頼りにされることが堪らなく嬉しかったのである。

 頼りにされるという意味は、同じ仕事がこなせる営業マンがいても、「貴方に来て欲しい」と言われることである。  


2008年08月25日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:13Comments(0)会津での思い出

郡山に着任してからの3年間は...

 今、私は40半ば。悲しいかな人生の半分以上は終わっている。あと何年生きるのだろうか? なんて考える年齢になってきた。
 会社勤めしていて家庭を支えていらっしゃる方々は、こうは考えないだろう。ボクも給与を貰っていたサラリーマン時代は考えもしなかった。

 取敢えず、安定した収入があれば人間あまり悪い方向へは考えないようだ。サラリーマンを辞めて一年以上が経つ。再就職はしていない。そのうち退職金や貯蓄は底を尽くだろう。
 どん底までとは言わないまでも、将来は明るくない。

 そんなボクでも輝いていた時代があった。郡山市に住んでいた13年間だ。

 それまで仙台営業所で勤務していた私は昭和62年に転勤命令を受けた。仙台は地元だ。そこから離れる時はゴネにゴネた。当時の所長や上司を困らせたものだった。

 結局、郡山には6月に着任した。それから平成12年5月連休までの13年間。当時30代だった私にとって、13年という月日は、人生の3分の1である。
 年齢的には、26~39歳までの間だ。体力的にも一番元気の出る年代だった。時代背景も昭和が終焉し、平成に元号が変わって、新しい時代到来の空気を感じていた。それも明るい空気だ!

 着任当初は馴染みの無かった街並みでも愛着がどんどん出てくる。仕事が初めからすこぶる順調だったからだ。
 仕事が順調であれば、不満は消えてしまう。

 そしてやがてバブル時代を迎える。仕事だけじゃなく夜の食事、スナック通いなんかも楽しかった。郡山駅前通りを挟んで、アーケード街と陣屋に分かれるが、陣屋の方によく行っていた。ネオン街は昼のように明るかった。

 そこで出会った多くの接客業のホステス...。20代後半だったボクは、20歳前後の女の子たちと話すのがとても楽しかった。良い時代だった。
 もう大概の人は結婚しているだろう。もう一度会いたいと思っているのは男のサガなのか? 

 会ってどうする? と思うのだが、その瞬間だけは、元気で楽しかった時代の匂いを嗅ぎたいのだろう。  


2008年08月24日 Posted by 杜の都の素浪人 at 22:20Comments(0)郡山での思い出

ミレニアムの年に転機を迎える

 前述の如く、私は30代後半までの時代は絶頂期であった。会社に行くのが楽しく何もかも上手く回転していた。
 ミレニアムのカウントダウンを私は会社で迎えていた。2000年問題を抱えていたからだ。年齢的にも厄年になる。でもそんな事は関係ないと思っていたのだが...。


 2月初め、病院で検査の立会いををしていた時、連絡があって、私に転勤命令が下った。それまで13年間、人生の3分の1を過ごした街や土地の人々の人柄に愛着を持っていたので、離れるのは抵抗が凄くあった。

 後任者はあと2年で定年を迎える名誉職みたいな者に譲らなければならなかった。明らかに間違った人事だと思った。
 私がそこに移れば2~3割の売上アップは期待出来るだろう。
 しかし今の営業所は逆に半減するだろう。東北全体から見ればマイナスである。
 転勤させる目的を聞いたが、納得させる返事は無かった。要は定期的人事の枠に填められたのだ。

 4月中旬からの引継ぎ作業、最初に一週間は自分が後任者へ託す期間。それが終わると次週は、自分の転勤先に伺って前任者から引継ぎを受けた。
 医療機器関係だから比較的、引継ぎは長いものになる。

 結局、郡山には昭和62年から平成12年まで住んだことになる。慌しく5月の連休に引越し作業をした。ダンボール箱に荷物を積めている最中でさえ、「この転勤、中止にならないか。」と思ったものだ。
 後ろ髪を引かれる思いで、郡山市を去った。

 気持ちの整理が付かないままの転勤であった為、新しい街には馴染めなかった。事務所内でも私が醸し出している雰囲気を感じ取っていたのだろうか、部下からは、よそ者が他人の家庭に入るような目で見られた。

 ここでは、衝突やトラブル...それまで経験したことのない挫折を味わった。思えばこの時が、人生の転機であったと述懐している。

 郡山を離れて運勢が下がってしまったのである。イヤだったら断固、自分の考えを貫き通すべきだった...。
  


2008年08月23日 Posted by 杜の都の素浪人 at 21:00Comments(1)郡山での思い出

入社から20年間は輝いていた

 私は昭和55年に就職した。ずっと一つの会社で27余年勤務した。サラリーマン生活を振り返ってみると、最初の7年が修行・成長期になる。その後の13年は栄光の時だった。
 その13年間が郡山市に住んでいた時期であり、自分にとって一番輝いていた。無我夢中で目的に向かって進んでいった頃を懐かしく思い出すことがある。


 21年前の私は、当時問題のあった郡山営業所に配属になり、著しく信用の落ちた市場に飛び込んでいった。
 今思えば若さと勢いがあったのだろう。自社贔屓の顧客は勿論、自社に反発する顧客、他社贔屓層を苦もなく、切り崩していった。毎日、一所懸命営業に勤しんだ。それで、徐々に顧客のハートを掴んで、市場の回復を図っていったのだ。
 それまで、他社市場占有率が8割強だった所を、1年でシェアをひっくり返した。

 何故、それが出来たのか? 無知だったからだ! 表現を変えれば、つまらない先入観や、行動を鈍らせる分析をしなかったという事だ。
 「ここはライバルメーカの得意先だから、営業仕掛けてもダメだろう。ここで時間を掛けるより、もっと確率の高い顧客へ行こう...」とは考えなかった。白紙の状態で挑んでいったのだ。

 病院、業者という大きな組織であっても、直接交渉するのは一人の人間である場合が多い。変な野心を持って相手に見透かされるような態度は取らず、単純に自社商品を売りたかった。幾度も訪問を重ねているうちに、顧客担当者とは、友達みたいな感覚で接する事が出来るようになった。

 夢中で仕事を続けているうちに、訪問しないまでも電話一本で注文を受けることも珍しくなくなった。電話一本と言えども、医療機器だから数百万になる。
 これは顧客の信用を得た自分の言葉が、市場に反映される事を意味している。つまり自分がブランド化された訳だ!!

 その実績は会社上層部も認めてくれた。当時では有り得ない全国最年少、31歳での所長昇格であった。時は’93年、それまで38年続いた自民党政権が崩壊した年だった。

 その後も快進撃は続いて、マスコミの健康ブームに乗ったこともあったが、医療機器の売上を大きく伸ばし、2年連続で「優秀事業所」として表彰された。会社から表彰されるのは結構、ハードルが高かったのだが、難なく果たし遂げた。世間ではバブルが弾けて、経済が停滞していた時期に、将に我が世の春を迎えていた。

 当時の私は、社内外誰からも一目置かれる存在であった。 
  


2008年08月22日 Posted by 杜の都の素浪人 at 20:15Comments(0)郡山での思い出

ちょっと自己紹介

 ど~もっ! 今日からブログをスタートしました杜の都の素浪人です。

 若い頃はダルビッシュ並みにルックスが良かった?? 40代後半に差し掛かった男です。
今では、その面影は全く無く....我ながら見苦しいルックスに成り下がっています...。
 毎朝、お腹の辺りがポッコリ出ているのを気にしながら、体重計に乗るのを日課にしています。


 少し自己紹介すれば、去年の初夏の頃、四半世紀以上勤務していた医療業界ではそれなりに知名度がある会社(一部上場)を退職しました。
 人事や不当な評価への不公平さ、約束事の不履行への絶望感....まぁ色々ありました。結局、上層部の考え方に不満を抱えながら服従するより、不服従の道を選択したという事です!

 仕事にはやりがいがあって、業績には誇りを持っていました。同僚との付合いも概ね良好でした。辞める時、同僚の連中から、「勿体ないじゃないか! あと10年我慢すれば良いじゃないか。」と言ってくれました。
 嬉しい言葉を貰ったのですが、緊張の糸が切れちゃいました。

 収入の事を考えれば愚かな選択だったと思います。今は、退職金を削りながら生活しています。

 サラリーマン時代を振り返ると、郡山市に住んでいた13年間が一番楽しい時代でした。

 これから、その郡山での思い出、よく行った旨い店、懐かしい人々など、思いのまま書き綴っていきます。
  


2008年08月21日 Posted by 杜の都の素浪人 at 18:15Comments(0)ノンセクション